「エンドゲーム」は「インフィニティ・ウォー」のアンサーになり得たのか
本稿は2019年4月末に公開された「アベンジャーズ /エンドゲーム」について「前作にてサノスが語った独自の『正義』にアベンジャーズ が答えられていない」という批判に対しふせったーに反論として書いたものを加筆修正したものである。
公開時、生涯ベスト1かというくらい泣きじゃくって魂奪われた映画なので、熱気に浮かされたものであることを予めご了承いただきたい。
※エンドゲームの無論ネタバレや核心に触れます。
では以下、本文。
「インフィニティ・ウォー」でのサノスはヴィランでありながらも確固たる信念があった。ソウルストーンを得るため義理の愛娘ガモーラを手にかけるとこで遂には悟りの境地に達する。 だが彼が成そうとしていたことは何なのか。
『この世から半数の生命を消す 』
この世の存続のためだと彼は言う。リソースが足りないからと。だが命を半数にするのはつまり命ある世界そのものが半分に縮小されるということだ。
本来あったかもしれない個々の夢や、出会い、そこから生まれる無限の可能性こそがリソースの問題を解決し存続の鍵になるかもしれないのに、サノスは半分にして小さくすることにしたのだ。
「インフィニティ・ウォー」においてまだ集まりきれてないアベンジャーズはサノスやその軍勢と戦う中で犠牲を迫られる。半分にした方が良いという思想の元の戦いでヒーローもその理屈に抗うことが出来ず、選択的犠牲を取ってしまう者も。言うなればサノスの押し付けたルールの中での戦い。それが「インフィニティウォー」だった。
サノスの「半分にする他ない」という圧倒的な信念に支えられた強さを前にヒーロー達は答えられれず完敗を喫してしまう。そして世界は半分にされた。
「インフィニティ・ウォー」の後、「エンドゲーム」の公開直前に存在自体が勝利の鍵となるであろうヒーローのオリジンをMCUは挟んだ。
「キャプテン・マーべル」である。
同作のクライマックス、主人公キャロルの師であり黒幕であったヨン・ログと対峙する。
ヨン・ログはキャロルに対し「強くなったな。俺のおかげだ。ここで俺と素手で戦い証明してみろ!」などと挑発する。だがキャロルはフォトンブラストで一瞬でケリをつける。
「てめえの押し付けたルールの勝負では戦わない」
そう、これこそが「エンドゲーム」の勝利の鍵となるロジックだ。
「エンドゲーム」は中盤、コミカルなテイストの泥棒映画のような様相を呈す。作戦会議シーンや、特に2012年のパートはかなり軽妙なノリでタイム泥棒作戦を敢行している。演じるキャスト陣の豪華さも相まって、さながらソダーバーグの「オーシャンズ」シリーズのようだ。
「インフィニティ・ウォー」は対称的にハードな作風の強盗映画「ヒート」の影響下にあると言われる。サノスが次々とヒーロー達からストーンを強奪していく強盗映画。
同じようにストーンを集めていく「アベンジャーズ」は真逆のテイストの泥棒映画。サノスのやったことに従わまいと抗うような対比だ。
ストーンを集めたアベンジャーズはガントレットを再現して半数の命を戻す。そしてビッグ3がサノスに敗北しかけた絶体絶命のその時に、さまざまな場所にいたヒーローやその仲間達が無数のスリングリングのゲートを通ってきてアッセンブルしていく。「マーベル・シネマティック・ユニバース」それ自体のビジュアライズとしても壮絶だが、更にそれはサノスが突きつけた思想へのカウンターだ。
世界は決して小さくすべきじゃない。半分にすべきじゃない。こんなに沢山のヒーローがいる。様々な人々がいて、その数だけ能力があり、意志があり、人生があり、夢があり、絆がある。その中でいつかきっとリソースの問題を解決する世界存続の鍵だって見つかる。
だから犠牲がどうしても必要などと決めつけ、押し付けるな。
「てめえが押し付けるルールの勝負に誰が従うかよ」
これぞアベンジャーズからサノスへの回答だ。貴様の問題提起などに答えるか。
マーベルシネマの世界は今後も更に広がっていく。それこそが鍵である。
そう考えずクソ身勝手な思想を世界に押し付け大虐殺を行なったサノスはやはり間違いなくこの映画において「悪」なのだ。
これをコミックのアートでしか見たことないような、ヒーロー総集結とぶつかり合いの神話的ビジュアルで描ききるからこの映画は凄い。
本作に「インフィニティ・ウォー」のサノスの問いを引っ張ってしまうとナターシャやトニーの自己犠牲はサノスの言う「必要な犠牲」と何が違うのかという批判が成立しそうだが、「インフィニティ・ウォー」での犠牲はサノスの押し付けたルールの下でこそ選ばなければならない犠牲だった。
スターロードはガモーラを撃とうとしたのも、ワンダがヴィジョンを破壊したのも、サノスの眼前での行動として描かれていた。
「エンドゲーム」はサノスのルールに乗らなかったのだ。間違ったルールなどに。だから似たようなストーン集めの行動を描くパートも対称的なテイストとなり、トニーやナターシャは自分の覚悟を以って自己犠牲を果たす。
自己犠牲自体はヒーロー物にどうしてもつきまとう問題だ。しかし否定してしまってはそもそも誰かの代わりに立ち上がるという英雄的行為は成立し得ない。
だがそれを行うのは決して悪の押し付けの下ではない。
これが「エンドゲーム」の「答え」だったのではないか。
誰かを犠牲にしてしまう問題自体はこれまで描かれてきたように、これからもMCUや他のヒーロー映画でもずっと描かれ続けるであろう。そこに決して明快な答えはない。不断に考え続けなければならない問題だ。我々の世界と同じだ。
だからこそ、今後もマーベルシネマティックユニバースは広がり続けるのだろう。
そしてきっとまた「ヒーローは帰ってくる」。
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