「エンドゲーム」の特に好きな「人間ドラマ」

 ふせったーからの転載を基にしたものです。「アベンジャーズ/エンドゲーム」公開してすぐの頃はいろんなシーンでいちいち泣かされていたっけね・・・まだ半年前だけど懐かしく思い出しながら加筆修正などしてみる。

 今年の5/1に「アベンジャーズ/エンドゲーム」の3回目をMOVIXさいたまドルビーシネマで観て翌日書いたものをベースとしています。細かなドラマ部分にて人物の関係性の変遷や深みをさりげなくも巧みに描くからこそ、スペクタクルな見せ場にも彼らだからこその「熱さ」がこもった。「エンドゲーム」の優れたポイントのひとつである。

 普段はド派手な超大作が好きで、いわゆる「人間が描けていない」という切り口の批判を見聞きすると虫唾が走るようなオタクなんだが、「エンドゲーム」の「人間ドラマ」について、印象的だった2シーンをピックアップしよう。

〇5年後の世界の序盤 机に足を乗せるナターシャと、優しく声をかけるキャップ

 「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」中盤で逃亡犯となったキャップとナターシャはピックアップトラックを盗んで逃げる。ナターシャは助手席で足をダッシュボードに乗せる。キャップは「借り物の車にやめろ」と怪訝そうな顔で注意し、ナターシャは嘲るように笑っていた。まだお互いが胸の内を明かしてないので信頼関係とまでは至らず、真面目なキャップは嫌そうで、ナターシャはそんな彼に探りを入れ茶化す。二人の距離がわかるシーンだった。

 変わって「エンドゲーム」。ナターシャは机の上に足を乗せたまま地球防衛ネットワークと化した仲間達と通信する。ここでは探りではなく素としての行為としての意味だ。気を許せる「家族」のような唯一の存在が彼女にとってはアベンジャーズ。だからこそ行儀の悪い素の部分を自然に曝け出せる。足を乗せるという行為が以前とは変わっている。
 そこに現れるキャップ。注意するどころか、クリントのことを思って涙ぐんでいたナターシャに寄り添いながらも気を紛らわすため料理でも作ろうかと尋ねる。ナターシャは冗談っぽく返し、更に自分が食べるつもりだったであろうサンドイッチの皿を彼の方に差し出す。キャップが柔軟になっていることとナターシャへの信頼と気遣いが垣間見える。元々独特な信頼関係のナターシャとキャップ、激動の中で二人ともここまで丸く柔らかく、信頼がここまで深まったのだ。

 MCUは俳優の演技で心情や人間関係の機微をさりげなくも的確に描く。どんなに荒唐無稽な世界になっても変わらない。ファヴローやウェドンが始めたアンサンブル演技を尊重した俳優の共演シーンと同じ方向性にある、静かだがMCUらしい見事なシーンだ。

〇1970年の世界でトニーがハワードと別れ際に話す「子供のためならなんだってしたい」

 まるで劇中で否定されていた「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を彷彿とさせるシチュエーションなのでパロディかオマージュのようにも思えるが(音楽は同じアラン・シルベストリだ)、「シビルウォー」内で巨費を投じて作られた記憶再現VRシステムBARFを通し描かれた「父との理想の別れ際の会話」を今一度トニーが行える奇跡的なチャンスと取る方がドラマチックだろう。

 ハグが苦手なトニーが自ら別れのハグを求める。それだけでも泣かされるのだが、更にあの会話。ハワードの言う「子供のためなら何でもしたい」、対しトニーの顔が映される。意味ありげな表情。ハワードはトニーにとって「良い父親」だったのか問題は「アイアンマン2」でも描かれたのでトニーが「どの口が…」と思ったとも取れなくは無いのだが、ここで重要なのは「何でもしたい」というニュアンスだ。原語が正確にヒアリング出来れば更に論拠として展開しやすいのだが、「エンドゲーム」は予告の時点から「すべてに代えても」というセリフが印象的に使われていた。予告ではキャップが最初に言い、トニーが最後に発するのが印象的であった。

 しかし本編においてキャップは発するが、トニーは発しない。発した時のキャップの顔を見遣るに留まる。トニーはタイムトラベルする際の前提条件で今の自分の生活は守りたいとも言っていたのでモーガンの父親として必ず生きて帰りたいという気持ちも勿論あっただろう(遺言代わりのホログラムも残しているので誰よりもリスクは承知しつつ)。

 ハワードの「子供のためなら何だってしたい」を聞いて遂に「すべてに代えても」の覚悟が固まったのではないだろうか。あのセリフの前にトニーは「父のやり方を参考にしました」と冗談のように交わしている。前後はするが今一度父のやり方を参考に、モーガンの生きるこれからの世界のために「すべてに代えても」を真に覚悟した、また決意の再確認をしたのではないか。父親がそう思ってくれていたように、自分だって娘にそう思った。だからこそ最後の自己犠牲。トニーの意味深な表情がほんの少しだけ長く移されるショットにその覚悟を感じた。あの顔が1400万605分の1の戦いを終わらせる「それなら…私がアイアンマンだ」に繋がるように思えたのだ。

 こういった要所要所を俳優の演技に託して描いた「アベンジャーズ/エンドゲーム」、やはりMCUのやってきたことの総決算で究極である。人物の機微を繊細に描き、大スペクタクルの骨子としても機能する。ハリウッドの大予算のかかったVFX満載の大作映画は「人間が描けていない」などと揶揄されがちだが、やっぱり「エンドゲーム」は良かったぞ。

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